
7月11日(木)の奇跡体験アンビリバボーは、海と山の恐怖をテーマに放映される予定です。
福岡大学ワンゲル部が北海道の日高山脈で襲われ、3人が命を落とした事件を取り上げるそうですが、もう今から鳥肌がたっています。
何年か前、ネットでヒグマの恐ろしさを知ってから、ヒグマ被害について色々調べていました。日高山脈の事件は本当に恐ろしかったです。
結構詳しく調べた記録があるのでまとめてみます。
事件の概要
1970年7月に日高山系カムイエクウチカウシ山で、福岡大学ワンダーフォーゲル部が1匹のヒグマに執拗に襲撃をうけ、結局3人が命を落とす悲惨の結果になりました。 このヒグマの行動は執拗という言葉しか当てはまりません。
事件の経緯
福岡大学のワンダーフォーゲル部の5人は1970年7月14日、北部の芽室岳から入山しました。
ワンダーフォーゲルというのはドイツ語で「わたり鳥」を意味して、自由な山歩き、自然と親しみながら体を鍛えるというような活動です。
7月25日
午後3時20分
カムイエクウチカウシ山の九の沢カールでテントを設営しました。 カールというのは氷河の浸食によって、山頂直下の斜面が、
テントから6メートル位離れたところでヒグマを見つけました。
5人は最初のうちは全く怖がらず、写真をとったりして喜んでいたりしたそうです。ところが、そのヒグマはテントの外においてあった彼らの荷物を漁り始めます。
残り少ない貴重な食料が入った荷物をヒグマに奪われるわけにはいかないので、ラジオの音を大きくしたり、鍋をたたいて大きな音を立てたりして、ヒグマを追い払うことに成功しました。
夜9時頃
疲れきって眠っていた彼らはヒグマの鼻息をきき飛び起きました。ヒグマはテントにコブシ大の穴をあけてまたいなくなりました。2時間ごとに2人の見張りを立てて夜を過ごしました。彼らはさぞかし怖かったでしょうね。。。
7月26日
午前3時
起床、といってもほとんど眠れなかったでしょう。空は快晴で、彼らは撤収準備をはじめます。
午前4時半
またまたヒグマが近づいてテントに入ろうとしました。
5人はヒグマを入れまいとしますが、命の危険を感じて、ヒグマとは反対側の入口から逃げ出し、50メートルほど逃げました。
ヒグマは荷物を漁り、彼らのリュックを咥えていっては木の間に隠していったそうです。
リーダーのAは、BとEの2人に営林署に連絡してハンターによる救助の要請を頼みました。BとEの二人は下山を始めました。
ここで、どうして5人揃って下山しなかったのかが不思議です。
午前7時頃
BとEは、下っていった八ノ沢で、北海道学園大学のパーティと出会います。彼らもヒグマに追い掛け回されていたそうです。おそらくは同じヒグマなのでしょう。荷物の一部をヒグマに渡したことで、命からがら逃げ出せたそうで、北海道学園大学のパーティは予定を変更してこれから下山するそうです。
BとEは彼らに救援の言付けをして、そして、食料や地図、ガソリンなどを譲り受けて、Aたち3人が待つ場所へ戻っていきました。その途中、鳥取大学のパーティと中央鉄道学園のパーティに出会います。
午後1時
BとEはA,C、Dと合流に成功しました。
午後3時
稜線上にテントを設営し、夕食をとり、就寝準備を始めます。
午後4時半
またヒグマがテントのそばに姿を現しました。1時間以上もテントのそばを離れず、命の危険を再び感じた彼らは、BとEがさきほどであった鳥取大学パーティのテントへ避難しようと、テントを離れ、稜線から外れカールを降り始めました。もう真っ暗ですが5人は必死で歩き続けます。
午後6時半
真っ暗な中歩き続ける5人を、またまたまたヒグマが追ってきます。5人は走って逃げますが、一番最初にEが襲われました。
「畜生!」という声と、足を引きずってカールの方へ降りていくEの姿が、Eの生きている姿を見た最後でした。
この様子は、近くでキャンプをしていた鳥取大学パーティのテントにも聞こえました。彼らはホイッスルを鳴らしたり、焚き火を宅などして自分たちの位置を知らせようとして、助けを呼ぶために下山することにしたのです。
AとBとDは集合しましたが、Cだけがはぐれてしまったようです。Cはその後、ひとりで鳥取大学パーティの残したテントで一夜を過ごしますが、結局ヒグマに襲われ亡くなってしまいます。Cは一人になってからのメモを残しています。ヒグマへの恐怖や不安、他のメンバーの安否を案ずる気持ち、そして「早く博多へ帰りたい」という悲痛な言葉を残しています。
このメモの内容へのリンクを張りました→Cの残したメモ
AとBとDは岩場で夜を過ごすことになります。
7月27日
午前8時
彼ら3人ははぐれた2人を探しますが、霧が立ち込めており、それ以上の捜索は無理と判断し、下山を始めます。
そこへまたヒグマが現れるのです。リーダーのAが追われカールの方へ逃げていきました。生きたAの姿を見るのはこれが最後でした。
午後1時
BとDは五ノ沢の砂防ダム工事現場にたどり着きます。そこで助けを呼びます。
午後6時
BとDは麓の札内駐在所にたどりつきます。
7月28日
A,C、Eの救助隊が編成され捜索がはじまります。
7月29日
2名の遺体が発見されます。彼らを襲ったヒグマがハンターに射殺されます。
3~4才の若いメスのヒグマでした。
7月30日
1名の遺体が発見されます。
発見された遺体はいずれもヒグマに襲われて命を落としていました。しかし、クマに喰われたわけではありません。ヒグマは食料として人間を襲ったわけではなかったのです。
改めてレポートを書いていて恐ろしさに震えました。これほど執拗なストーカー行為をしたヒグマにどんな理由があったのでしょう。
人を襲い喰べる人食いヒグマは確かにいます。しかし、このメスは遺体を食ってはいません。彼らから奪った荷物の中に入った食料でお腹が膨れていたのです。
一般に子グマを連れたクマは(クマに限らず)危険だと言われてますが、このヒグマは子連れではありませんでした。
このヒグマは彼らの荷物に執着していたのです。
一番最初に遭遇した時に、ヒグマは荷物を荒らしました。当然、福岡大学の彼らは荷物を守ろうとします。しかし、この時点でヒグマにとっては荷物はヒグマのものだったと考えられます。
ヒグマは自分のモノに非常に執着し、それを奪おうとするものには激しい敵対心を抱くのです。
途中で荷物を放棄した人間をも執拗に追い回し、いたぶるように殺していく・・・恐ろしい野生の本能ですね。
しかし、この地方でヒグマに襲撃され殺されるまでいく事件はこの事件のみです。何度かヒグマに襲われかける事件はありましたが、ここまでの惨劇はこの事件だけです。
この若いメスヒグマが特別に執拗で残忍なヒグマだったのか、それとも偶然に偶然が重なってこうなってしまったのか、私にはわかりません。
あとになるから言えることですが、2度目にヒグマに襲われたとき、5人揃って下山していれば・・・と悔やまれてなりません。